なぜ、化学物質は嫌われるのか、報道に
おける化学物質の扱い
〜「第15回食品添加物メディアフォーラム」


2010年6月29日(火)、大手町サンケイプラザで、第15回食品添加物メディアフォーラムが開催された。サイエンスライターの佐藤健太郎氏が、「ニュースの中の化学物質」をテーマに、化学物質のメディア報道、消費者への影響など語った。


「化学物質=人工的・体に悪い」というイメージだけが先行

そもそも「化学物質」というと具体的に何を思い浮かべるか?---。佐藤氏が問いかけと、会場からは「食品添加物」「着色料」などの声があがった。

「化学物質」というと「人工的に作り出された、何か体に悪いもの」というイメージがある。しかし「化学物質」の本来の定義には人工・天然といった区別や、もちろん体に良い・悪いといった区別もなく、実際には身の回りのものはすべて「化学物質」の集まりだと佐藤氏。そうした意味では、私たちが毎日摂取している食品はすべて「化学物質」がらみといえる。

化学物質という言葉が別のイメージで一人歩きしていることが、マイナスイメージをいつまでも払拭できない最大の要因であると佐藤氏。どんな物質も、リスクはゼロではない。危険な部分だけを取り上げて拡大解釈すれば、ただの水でさえ規制の対象になりかねない。

「天然・自然」、必ずしも安全というわけではない

食品業界においては「天然」という言葉を売りにし、「天然=安全、安心」というイメージを植え付け、消費者を煽る傾向がある。しかし、天然とはいえ、例えばふぐ毒やタバコのニコチン、カビ毒などのように危険な天然物もある。

科学技術が進歩した今、天然物と人工物の境界は極めてあいまいで、例えばミントの香りのメントールやバニラの香りのバニリンなどは天然物からも得られるが、人工的に合成することも容易で、不純物もなくコストも安い。また、できあがった化合物を天然か人工か区別することは難しい。

食経験の歴史、食品の安全性をはかる尺度

「天然・自然」だから安心なのではなく、古くから食べられてきた歴史のあるものはそれなりに信頼がおける、自然の恵みというより祖先の知恵の恵みが、現在のわれわれの安全な食環境を与えてくれていると佐藤氏はいう。このため、最近になって開発されたものや食品添加物については厳しい試験が課されており、現在国内で販売されている食品において毒性のある添加物はあり得ないという。

毒性の有無に関わらず、食品添加物は気持ちが悪い、できれば摂取したくない、と考えられがちだ。

しかし、あらゆるものに毒性があり、服用量が毒性の有無を決めるにすぎない、ということを私たちは理解しなければならないと佐藤氏は指摘する。

水道水の塩素は発がん性物質を生じさせるため危険だという声で、かつてペルー政府は水道の消毒をやめてしまった経緯がある。その結果、コレラが大流行し、感染者が250万人、死者が1万人を超えるという大惨事を招いた歴史がある。

化学物質、リスクと利益が共存

このことは、化学物質にもリスクと利益があることを象徴している。保存料や防腐剤も同様で、毒性を指摘する声がある一方で、使わなければカビ毒などによる致死のリスクもある。毒性を示さない適正量・許容量を生活者にきちんと説明すれば、嫌われがちな食品添加物の理解度も増すのではないかと佐藤氏は訴える。

メディア、「安全」より「危険」を優先的に報道

マスコミにおいては、「危険」報道はニュースバリューがあるが、「安全」報道はインパクトがない。「安全」報道の際、危険性が見つかった場合は、責任問題にもなりかねないという側面がある。

100%の無害・安全を証明することは不可能なため、「安全」報道は「危険」報道に比べ大きなリスクを伴う。これまで危険性が疑われた化学物質の嫌疑も完璧には晴れていない。疑いの全てをはらすには膨大な費用と時間がかかる。

生産者やメディア、間違ったイメージを消費者に与えないという責任

私たちは「好き嫌い」で物事を判断しがちで、食品添加物やいわゆる化学物質を嫌う、という傾向がある。こうしたことを前提に、科学者はより合理的で判りやすく、消費者に歩み寄るような情報提供を心がけなければならない。また、生産者もメディアも同様に、間違ったイメージを植え付けないような販売や販促をしていく責任があると佐藤氏はいう。



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