7-8世紀に塩作りが始まる
塩は生命活動に必須の物質であり、古代からさまざまな方法で塩作りが行なわれているが、安価に大量生産されるようになるまでには苦難の歴史があった。
また、砂糖は体にとって効率的なエネルギー源であり、食品の味付けに欠かせないもので、古くは薬として輸入され、庶民には手の届かない効果な貴重品であった。塩も砂糖も戦後ようやく庶民でも気軽に手に入れることができるようになるというのが共通点。
そもそも塩は、海水を直接利用するなどして摂られていた。塩がいつから食されていたかは明確ではないが、縄文時代の遺跡から海水を煮詰めるために使ったと思われる土器が発掘されている。
万葉集には「藻塩焼き」に関する記述が残っており、遅くとも7-8世紀には塩作りが本格的に始まっていたことが考えられる。
塩製造の苦難の歴史、塩が清浄で神聖なものへ
日本には岩塩のような塩資源がなく、高温多雨という気候のため天日塩田での塩作りができない。そのため今も昔も、いかに濃い塩水をつくり煮詰めるか、ということから塩が作られてきた。
海水から濃い塩水(かん水)を作る方法は揚浜式、入浜式、流下式と変遷を辿るが、いずれも重労働で、また塩を煮詰める作業も夜を徹して行なわれる厳しい作業であった。
こうした苦労の歴史が、塩が清浄で、神聖なものとして扱われた所以だと考えられる。一例として各地に塩に関係する神事があり、また神事とは関係ないが、香の物祭りといって漬け物を祭る祭りもよく知られている。
1972年、イオン交換膜法で塩作りが本格化
1905年、国内塩産業の保護・育成・基盤整備や日露戦争の戦費調達のために専売制が施行されるも、急激な価格上昇が社会の反発を買う。1918年には国内や塩産業のさらなる育成と塩の価格をできるだけ低廉にし、安定して国民に供給することを目的に公益専売制へと変わる。
1972年、イオン交換膜法による塩作りが本格稼動し、全国にあった塩田はほとんど廃止。国内で海水から作られる塩のほとんどがこの方式になったことで、大幅なコスト低減が可能となり、現在に至る。日本の食文化は漬け物や醤油をはじめとする醤(ひしお)の文化から成り立っている。
砂糖、中国から遣唐使によってもたらされる
一方、砂糖の歴史はどのようなものであろうか。世界的には、蜂蜜が人間が最初に口にした甘味料だと考えられている。日本における砂糖は、近年までは輸入の歴史と言っても過言ではなく、塩とは大きな違いがある。
塩は代替できないミネラル成分であるのに対し、砂糖は他の食品から容易に摂取できるため、嗜好品という違いがある。
砂糖についての記述は奈良時代や平安時代の文献にあるが、いずれも薬としての用途であった。国内には中国から遣唐使によってもたらされたと考えられている。
江戸時代初期、砂糖の輸入量が増加
9世紀末に遣唐使の派遣が中止されると、砂糖は、官による輸入から民による輸入へと移行する。唐から宋の時代になると、中国商人や日本僧などによって輸入され、日本との関係が悪化した元の時代にも継続的に行なわれていた。
その後、南蛮貿易が始まり砂糖の輸入量が飛躍的に増加し、砂糖はそれまでの貴族や大名だけに留まらず、地方の豪族や有力者などにも広まり、消費を拡大していった。
消費と輸入の拡大は鎖国時代にも続き、江戸時代初期には砂糖の輸入量の増加により、通貨としての金や銀が大量に国外に流出したことから、ようやく輸入制限と砂糖の国産化を施行しはじめた。
幕府の支援のものと、サトウキビの生産を振興し、日本の精糖業が東海地方よりも西のエリアに広がる。これが和三盆糖である。
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