健康を支える食の科学
〜第44回東京大学農学部公開セミナー

6月15日(土)、東京大学弥生講堂で、第44回東京大学農学部公開セミナー「健康を支える食の科学」が開催された。中井雄治氏(機能性食品ゲノミクス寄付講座特任准教授)が、「食に対するからだの応答を遺伝子から探る〜ニュートリゲノミクス入門」と題して講演した。

食に対するからだの応答を遺伝子から探る
〜ニュートリゲノミクス入門

特任准教授 中井 雄治

「食べ物を摂取したときに、生体がどのように変化するのか」を研究する学問

日本で始まった機能性食品研究は、2000年以降、関連するいくつかの新たな学問を生み出した。例えば味覚サイエンス。味覚は味を知覚するだけでなく食欲の亢進や減退にも関わることが分かっている。

また、胎児期の栄養は成長後の生活習慣病のリスクに影響を及ぼすだけでなく、それが孫の世代にまで影響を与えることや、栄養の記憶が遺伝子に刻まれることなどが明らになりつつある。

「ニュートリゲノミクス」とは「栄養(ニュートリション)」と「解析法(ゲノミクス)」を組み合わせた造語で、「食べ物を摂取したときに、生体がどのように変化するのか」を研究する新たな学問である。聞き慣れない言葉ではあるが、実は私たちの生活にすっかり浸透している「機能性食品」から始まったものだという。

食品成分の生理的機能、日本から研究が始まる

機能性食品、つまり食品成分の持つ生理的機能についての研究は、今から30年ほど前に日本からスタートした。研究の最大の特徴は食品の栄養機能を「栄養的側面の一次機能」と「嗜好的側面(美味しさ)の二次機能」、そして新たな「生理的側面の三次機能」として明確に定義付けたことにある。

この「食品の三次機能の研究」は1984年頃からスタートする。健康志向ブームとリンクし、1991年には特定保健用食品制度が創設。1993年には第一号となるいわゆるトクホ商品が誕生する。そして2000年頃から「機能性食品研究」という食品科学の大きな潮流が世界へ波及した。

現在、国内ではトクホ商品がすでに1,000点を超えている。また、世界では「function food」という言葉がスタンダードに使われるようになっている。もちろん現在も日本は世界をリードする形で研究を進めている。

食品を摂取した時の体内で起こる変化を解析

機能性食品研究は、当初、食品中の成分が「どのような効果を持つのか」にばかり注目が集まっていた。しかし、さまざまな機能性成分や効果が明らかになるにつれ、「なぜそのような効果が現れるのか」という点に研究者達の興味が徐々に移行していった。そこでニュートリゲノミクスの登場となった。

食品を摂取したとき、生体の反応や応答は、遺伝子の使われ方の変化として生じる。それを網羅的に解析することで、「その時、生体に何が起こったのか?」を明らかにする研究、それこそがニュートリゲノミクスである。

「医食同源」は日本人が作った造語

そもそも機能性食品の研究の根底には「医食同源」という考え方がある。「医食同源」という言葉は中国伝来のような印象があるが、実は日本人が「薬食同源」という言葉をより分かりやすくするために作った造語である。

このような考え方はもともと日本にもあった。例えば江戸時代の日本の観相家である水野南北(1976〜1834年)は自著で「人間の生命の根本は食である。たとえどんなに良い薬を飲んだとしても、食事が正しくなければ生命を保つことができない。真の良薬は食である」と書き残している。

彼自身、一年間粗食を続けたことで運気が上向き、「食事を正しく摂ることによって健康になる」「食は命だ」という境地に達したと記している。

サーチュイン遺伝子の発現説に対する反論も

彼の考えは、現在世界的なトピックである「カロリス=カロリー制限」の考えとも共通している。ただ、「普段の食事の70%程度に制限することで寿命が伸びる」という理論がカロリスであるが、これについては未だ賛否両論で決着がついていない。

カロリスにより明らかに見た目の若さに差があるサルの写真が世間を賑わしたが、それがどのような遺伝子メカニズムで起こったのかは未だ解明されていない。当初はサーチュイン遺伝子の発現説が主流だったが、現在これに反論が起こっている。

最初のニュートリゲノミクス研究も実はカロリスが老化に与える影響について、マウスの腓腹筋(ふくらはぎ)の遺伝子発現を調べる論文であったという。

必要栄養素を減らさず、カロリーだけを制限した餌を長期間与えると、マウスの寿命を伸ばす効果があることは知られていたが、遺伝子発現を網羅的に解析することによってそのメカニズムを解明しようとした。ニュートリゲノミクスという言葉が登場する直前の1999年のことだ。

これにはDNAマイクロアレイという10円玉サイズのマイクロチップが使用された。DNAマイクロアレイを使用すると一度の実験で数千〜数万の遺伝子発現を見つけることができ、その膨大なDNA情報を一度に解析することができる。

結果、カロリー制限したマウスにおいて、通常加齢によって発現する遺伝子のうち29%がほぼ完全に、34%が部分的に(全体の60%)発現しなくなったことが解明された。しかし、カロリスがなぜ老化遺伝子の発現を抑制するかまでは明らかにならなかった。

ゲノム解読、あくまでスタートラインに過ぎない

今年は「ヒトゲノムの完全解読宣言」からちょうど10年にあたる。ゲノムとは全ての遺伝子情報のセットのこと、すなわち全染色体の全DNA塩基配列情報のことである。ヒトゲノムは30億塩基対、分かりやすく例えると、1塩基対を1文字とすると、400字詰め原稿用紙にして750万枚分の情報である。

この膨大な情報を解析・研究できるのは、コンピューターやDNAマイクロアレイを駆使できるからであり、これらの情報を取り扱う「バイオインフォマティクス(生物情報科学)」という学問もいま重要度が増している。

現在はヒトゲノムだけでなく、チンパンジーやマウス、ラット、ショウジョウバエなどさまざまな生物のゲノムが次々に解読され、それに伴い生物学の研究も加速度的に進んでいる。

このような研究が始められた当初は、ゲノムが解読されれば「その生物のことはすべてわかる」というような空気があったが、その認識が間違いであることがもはや常識となっている。

ゲノム情報は基本であり、重要であることは間違いないが、あくまでスタートラインに過ぎない。「どの遺伝子が、いつ、どの場所でどれくらい使われるか」までは、ゲノム解読では明らかにはならないのだ。

遺伝子の使われ方、個体によって変わる

例えばヒトの1個の受精卵はそれが最終的に60兆個の細胞から成る人間の体を作るが、全ての細胞が持っているゲノム情報は基本的に同じなのに、ある細胞は目になり、ある細胞は皮膚や臓器になるなど、異なる形態や機能を示す。

これはそれぞれの細胞や組織で「遺伝子の使われ方」が異なるからだ。「どのように人体が形成されるのか」を知るためには、遺伝子の使われ方やその仕組みについて解明することが必要である。

これは食についても同様で、私たちは栄養摂取を必要とする動物だが、同じ栄養を摂っても、個体それぞれの栄養状態や健康状態に応じて、遺伝子の使われ方が変化する。食べるという行為は同じだが、遺伝子の使われ方が個体によって変わるということだ。

特に食品は複雑な混合物であるため、食品成分一つ一つが個体に与える影響をゲノム的に解析することは、非常に難しく、まだまだ長い時間がかかると中井氏。

しかし、食品による病気のリスクの低減は時代が求める考え方であり、食品が人体にどのようなメカニズムで影響を与えているかを知ることは、今後ますます重要な学問であることは間違いないとした。


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