ヒトのゲノム(ヒト全遺伝子)の解析が急速に進み、ほぼその全容が明らかになるなか、医薬品業界ではそれをベースに創薬が進んでいるが、食品業界では疾病予防の食品の開発に役立てようとする動きが活発化している。個々人の遺伝子情報を解読し、疾病予防のテーラーメイド食品を提案することで、限りなく疾病が遠ざけられる可能性が高まってくる。東大大学院農学生命科学研究科教授の阿部啓子氏に次世代の機能性食品のあり方についてうかがった。
阿部 啓子(あべ けいこ)
<略歴>
昭和44年 お茶の水女子大学家政学部食物学科卒業。昭和46年 同大学大学院家政学研究科食物学専攻修士課程修了。48-52年 アメリカ合衆国デューク大学医学部研究員 52-59年 お茶の水女子大学家政学部技官。59-平成3年 東京大学農学部教務補佐員。平成4年 東京大学農学部 助手を経て、平成6年 東京大学大学院農学生命科学研究科 助教授。平成8年、東京大学大学院農学生命科学研究科 教授。現在に至る。
<専門分野>
食品科学、味覚科学、遺伝子科学
食品の機能を遺伝子レベルで解析・評価し、疾病予防に役立てる~次世代の機能性食品を設計
東京大学大学院農学生命科学研究科
教授 阿部 啓子 氏
— 遺伝子解析により、疾病予防に役立つ食品を開発しようと食品企業も注目していますが
なぜ、機能性食品が効果的なのかをきちんとした数値で出したい
阿部: 私共では、食品がヒトの身体に及ぼす影響を遺伝子レベルで解析することで、食品のもつ機能性のエビデンス(根拠)を明確にしたいと思っています。エビデンスといえば疫学的なものも、ある人がこう云ったという伝承的なものもありますが、そうではなく、きちんとした数値で科学的なデータを出したいと考えています。
これまでは、ある特定の成分について、例えば、それが生活習慣病を起こさないとか、起こしにくいとか、あるいは遅らせるとかを生理・生化学的方法でみていました。 あるターゲットに絞って酵素活性がどうとか、細胞にふりかけたときに細胞ががんにならないとかいったことです。 生活習慣病になりにくいものはこの成分といったことを、局部的にみるアプローチでした。
細胞について言うと、腎臓系もあれば神経系、腸管系といったいろいろなラインがあります。そうした細胞で、ある抽出した有効成分をふりかけた時にどういうことが起こるのかという視点でみてきました。
抽出した有効成分がいかに吸収されていくのか
ところが、細胞が変わればいろいろ違うのではないか、あるいは量についても、何回与えるかによって違うのではないか、さらに言えば、口に入れて食べて結果的にその細胞まで到達するかということが見過ごされていました。
食品はまず口に入ります。しかし、腸を通って吸収され、血液に入らないとあらゆる臓器に行きません。そうしたところを抜かして、実際に細胞にまで達したらという仮定の条件設定でやっていましたから、ものすごくあいまいにならざるを得ませんでした。
人が食べた時にどういう効果があるのかというところを数値化したい
ものを食べた後、細胞に行き着くまでにいくつかのステップがあるわけで、そこの研究をやらなければいけません。学問領域ではそういうところをきちっと数値化しないと学会で発表もできませんし、認知もされません。
ここ何年か、産業界側と大学側でそのあたりをなんとかしなければいけないという気運が高まってきました。 そうした流れの中で、ヒトゲノム情報がわかってきました。それで、私共は、遺伝子を解析したものをチップに乗せて、これまでもやもやしていた疑問を解決し、人が食べた時にどういう効果があるかといった答えを数値化して出したいと考えました。
— 最終的に、個々人のゲノム解析により、それぞれに合った食品を提案するようなことが考えられますね
阿部:そうですね。創薬の考えと同じだと思います。ただ、食品会社が狙っているのは病気になって以降のことではなく、病気になる前です。つまり発症を遅らせる、あるいは発症しにくくするということです。しかも、タブレットというわけではなく、日常の食事の中で無理なく食べれるようなものです。
— 機能性を明記した食品で、厚労省認可の特定保健用食品がありますが、その次の段階のものを狙うということですか
阿部:科学的に立脚したエビデンスをもっともっと出しましょうということです。それこそが、次世代の機能性食品の設計につながると思うからです。
機能性食品にしてもトクホにしても、個々人に対する適否に関するエビデンスデータをもう少し取りましょう、また違った形でエビデンスデータをもっと増やして質を濃くしましょうというのが私達がやろうとしていることなのです。 すでにこれが効くということがわかっているものがあれば、私共のツールで数値化し、それを元に次の開発につなげる、あるいはさらに個々人をターゲットにしたデータを得て、あなたはここが弱いですから、こういうものを余計に食べるようにするといいですよ、といったことの提案もできると思います。
— 個々人に合ったテーラーメイド食品ということですね
阿部:そうです。食べ物についていえば、例えば、主食をパンにするかご飯にするか、ご飯の場合はライスのたんぱく、小麦の場合は小麦の中のたんぱくで全然種類が違いますね。小麦、ご飯を一緒に食べたほうがいいとか、あるいは小麦のほうがいいとか差があるはずなんです。 その時に、あなたの場合は、小麦と米を、こういう割合でずっと食べ続けていると体調がよくなりますよ、といったアドバイスができます。
— 個々人が自身のゲノム情報を知り、自身に合った食品を摂ることで、将来的に罹患の可能性のある疾病の予防ができるということですね
阿部:ただ、食べ物は薬と明確にゴールが違っています。個々人がなるべく病気をしないで長生きでき、ボケたり老化現象もなくてということに食生活が関わるとしたら、それはどういう方向性なのかということをみたいと思います。
私は、食品を微視的ではなくて、巨視的に考えたいのです。美味しいものを食べると幸せになり、気持ちも良くなり、他の面でもいいことがあり、もちろん身体にも良いし、長生きもでき、いつまでも動けてボケなくていいといった総合的な観点からみたいと思っています。
学問的なデータを得た後は、例えば、ナショナルプロジェクトのようなもので、どういうものをどういうふうに摂ればいいのか、というような実践の方法を提示していかなければいけないと思っています。
そうした学問体系を作るために、ゲノム情報を使います。 食品の中の因子が生体に有効性があるとしたら何故だろう、というのを、皆さん細胞にふりかけてということでみているのですが、私共はこれをラットやマウスや牛に食べさせてみて遺伝子の変化を計測するという方法で行います。
まず、哺乳類で人間に非常によく似ているラットとかマウスとかそういったものを使ってある程度の結果が出ましたら、今度は人間の尿、唾液、血液、頭髪、皮膚でみれるかもしれません。ともかく動物でもう一回、何故効いているのかというところをみましょうということでやっています。
—- 今後、企業が参画した場合、どのような手順で行われますか
阿部:私共は産学コンソシアムのような形でやっています。企業の方々にはオリジナルの素材をもってきていただき、それを上述の方法で解析します。もちろんこちらで研究していただいても結構です。主体的に企業の方々にオリジナルの商品で実験をしていただき、そのデータを元にディスカッションしましょうということです。 その場合、全ゲノムがのったチップを使い、これで食品の機能を計測します。
トクホの次の大きな市場が期待
企業の方々は食品の機能性をいろいろ研究してトクホをとっています。が、次世代、次々世代の機能性食品というのが大きな市場としてあるわけです。 だとしたら次は開発のスクリーニングの方法です。今までは何処かで原料を見つけてきて、疫学的に良いらしいということで、例えば、沖縄の人は長生きをするのはなぜだろうと、沖縄にある野菜を全て調べようという方々もいれば、豚がいいんじゃないかということで豚を、あるいはミネラルが良いということで海藻をやっていました。
ただ、それをどう評価するかということです。その中の成分が、例えば100成分あったとして、どの系統で自分達はやっていくかということです。豚でも、蛋白なのか、脂肪なのかということです。その時にヒト試験をボランティアを募ってやろうとすると大変な労力を要します。
スクリーニングから最終的なところまで何らかの評価系が皆さん欲しいわけです。私共では、このチップで遺伝子情報を使うことによって数値化すれば、きちっとした学問になると考えています。 私共の評価系を用いて、5年以内にそれを出したいというのが現在一緒に研究している企業の方々の目標です。
— 企業の参加ニーズは大変なものがあると思いますが
阿部:問い合わせが殺到していますが、一つの実験に半年くらいかかります。ですから、半年、1年くらい待ってくださいとお願いしているような状況です。まずイルシー(日本国際生命科学協会)に加盟していただいて、それから私共のところに来ていただくということでお願いしています。
多くの企業がいろいろな方向から、例えば、血糖値だけでも1社だけでなく5社くらいが、たんぱく質でも、糖でも、脂質でも効くといったオリジナルの商品を開発していらっしゃいますが、そこで、こういった遺伝子が効いているらしいという基礎知見を共有できますと、使用するチップも共同購入できますので、値段もかなり割安になると思います。
— 予防医療の意識が高まっています。中でも、「食」の機能性に関心が集っていますが、同時に安全性についても敏感になっていますね
阿部:安全性については、「これは安全ですよ」という最終結論はこの方法では言えません。ただ、危険な場合は、身体の神経系がSOSを出した時には、こういった遺伝子の発現があります、というようなことがわかってきています。遺伝子サイドから見た毒性チェックについても、当然知っておくことは大切です。
— 米国では遺伝子解析による創薬が盛んですが、食品開発への取り組みについては
阿部:創薬ということに関してはものすごく熱心ですが、食品についてはまだそういうことをやっていないようです。 食べ物というのはプラス面とマイナス面の両方があります。いろいろなものの負のリスクを取らないような食べ方をしなければいけません。 ちゃんとしたデータをとろうと思うと10年かかります。環境の良くない土地でできた物は食べてはいけないといいますが、何故かという答えがありませんでした。そのために数値化したデータを短期間で出すのがまず第一と思っています。